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| | Korea and Japanese 10 Print Works | |
| | Yayoi Kusama 草間彌生 | Kosai Hori 堀浩 哉 | Noe Aoki 青木野枝 | Hideki Nakazawa 中ザワヒデキ | Miran Fukuda 福田美蘭 | 
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| Kim,Hyung-Dae 金 炯大 | Cha, Ouhi 車 又姫 | Yook, Keun-Byung 陸 根丙 | Yim, Young-Kil 林 英吉 | Choi, Jeong-Hwa 崔 正化 | 
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| | | | | | | | TEXT 千葉成夫 きわめて特異な、興味深い版画集が生れた。2002年FIFAワールドカップ・サッカー日韓同時開催に因んで、その決勝戦が行われる地に居を構えるプリントハウスOMが企画し、日韓の10美術家を招待し、その工房で制作した作品10点から成る版画集である。国を越えた交流も数あるなかで一版画工房がこのようなかたちで実現したものは稀有である。この版画集に先立って、その機会にたくさん作られた、ここには収められていない作品をも含めたものによる交流展も、同じ工房内のギャラリーで開催された。従って、この版画集は、この比類なき企画を実現させた、日韓の10美術家、工房のスタッフや関係者たちの強い熱意と熱い心から生れたものである。 この企画に参加したのは、日本側は千葉成夫、韓国側は金英順によって選出された、日韓の現代美術を代表するといってよい、10人の画家、彫刻家、版画家である。つまり、版画を専門とするというのでは必ずしもない美術家を10人選出し、版画集でありながら、日韓の現代 美術の現在の状況をよく伝えうるようなものにしたいーーというのが企画の趣意にほかならない。 ささやかながら有意義と自負する交流の試みの成果であるこの版画集が、日韓交流の新しい幕開けの時期に際して、ひとつの足跡を記すことを願うものである。
この版画集の、日韓10作家10点の作品に具体的に現れているというのではないのだが、日韓の美術作品を見るときに僕がいつも感ずることは、いま、美術とは何を表現しようとする芸術なのだろうか、ということだ。造形芸術の少なくとも半分は平面の美術(絵画、ドローイング、版画)だとして、美術は何を表現しうる芸術なのだろうか、と言い換えてもよい。 たとえば平面の作品について考えてみるなら、日本現代美術は、主として、「空間」をどのように表現するか、どのように実現するか、ということをめぐって展開されてきている。それと対比してみると、韓国現代美術の表現対象はずっと広い範囲にわたっている。そう、言えるのではないだろうか? これが単純化した議論であること、例外はたくさんあることなどを、僕は承知のうえで言っている。 前者は、造形としてきわめて洗練されているが、その洗練は、表現の対象を「空間」に限定してきたために獲得されている。極端な例でいうなら、そこそこの造形空間の雰囲気を表現すれば、明確なテーマなり主題があいまいであっても、現代日本美術という文脈のなかでは、それが作品として成立してしまうことさえ起りうる。むしろ、なんらかの主題に引きずられない方が造形としては純粋だという考え方を、僕たちは育んできたのだ。この事態がいちばん怖いのは、それだと、この世界のリアリティから乖離していって、そのためますます造形の内側だけで閉じていってしまいかねないことである。そして、いま前者に起っているのがげんにそういう事態なのである。ただ、作品を作品としてだけで見た場合、それは非常に優れた、洗練された作品にはちがいないということがありうる。 それに対して後者では、作家たちが表現しようとしているのは、「造形空間」そのものというよりは、もっと明確ななんらかの「主題」にほかならない。もちろん、それは作家によって異なるし、多様だけれど、それがなくて「造形空間」だけが主題であるということは、そこでは珍しいといわなければならないだろう。そして、そのような意味で「主題」があるということは、美術が、いまなお、この世界で日々起っている出来事のただなかから生れるものであり、この世界の出来事を「主題」にしうる美術であることを、物語っている。そういうところから生れている作品を前にして、たとえば僕たち日本人が、技法のつたなさとか純粋造形としての洗練度の弱さを云々することは、たぶん生産的なことではない。 前者が、ある意味で社会の現実から離れて造形を純粋に造形的なところに局限してきたことには、それなりの歴史的また社会的な文脈と必然性がある。そのために主題性と現実性とを失ってきているが、その代り、「空間」の表現という点では独自なものを生み出し、高度な造形性を実現してきているのだ。他方、後者が、社会的な現実から離れるわけにはいかない状況のなかで多様な主題を展開してきたことも、それなりの歴史的また社会的な文脈と必然性とによるのである。その代り、そこでは造形性そのものは、それだけが第一義となることはなかった。 前者においては、造形芸術を追究していくということは、むしろ現実から出発はするのだが、ある段階で現実から飛び立っていくことになる。どうも、そういうことらしいのである。他方、後者においては、それは、いうならば現実のなかへと飛び立っていくことであり、ずっと現実を求め続けていくことである。そういうことではないだろうか。あえてカテゴリックになるのを恐れずにいうと、前者は現実から出て観念へと向い、後者は観念から出て現実へと向う。すくなくとも志向性としては、日韓の作品にはそういう正反対のヴェクトルが感じられるように思う。 21世紀に入ってやっと、日韓のあいだで、人々や文化や芸術の交流が、普通のこととして、普通に行われる条件がととのいはじめている。もしもそうだとすれば、日本にとってこの交流は、過去150年間にわたった西欧とのあいだの交流とは、まったく様相の異なるものになるにちがいない。とにかく、いろいろな意味で現実的におたがいに近いからである。美術については、日本の側からいうなら、それは自分を映す鏡を変更することにほかならない。自分に近いものに自分を映してみることーー近いけれど、やはりちがうのだ。近いこと、同じことは、おたがいに黙って頷きあえばよい。近いからこそ、異なるところを、おたがいにきちんと見るべきである。まず一人の作家と一人の作家とのあいだ、一点の作品ともう一点の作品とのあいだで、である。 |
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| | Yook, Keun-Byung The sound of landscape + Eye for field 2003 | |
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| | 中ザワヒデキ 209 same characters No.1 - 5 | 
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| ディジタルのヴェネツィア派 中ザワヒデキ TEXT 千葉成夫
20世紀では、世にテクノロジー・アートと言われたもののほとんどは、新奇なテクノロジーが物珍しくて、珍しいというレヴェルでただ闇雲にそれを取入れていたものにすぎなかった。つまりその大半は「アート」以前にとどまっていた。 中ザワヒデキが、従来のそういうテクノロジー・アーティストと異なるのは、まず、テクノロジーの新奇さだけを売り物にしたりはしない点だ。発想がまったくちがう。彼にとってディジタル・テクノロジーは自分の身体と同じようにごく自然なもの、ごく普通のものにすぎない。僕たちはやっと新しい「テクノロジー」をも絵の具や絵筆と同じレヴェルで扱うことのできる世代を持つようになったのである。まずその点が重要だ。 しかしそれだけではない。それが「如何に(手段・方法)」の事柄だとすれば、もうひとつ、「何を(なかみ)」という問題があるからだ。いつの時代も、「何を表現するのか」ということなくして美術は、表現はない。ディジタル・テクノロジーを駆使していったい何を見せてくれるのか、というのが、僕たちが中ザワヒデキに寄せる関心である。 例えば《文字座標型絵画》。文字を、ある方法にしたがって置いていった一枚の正方形の文字面が、ふしぎと「絵画」のように見えてくる。「JISコード」のような漢字を法則に則って配列したものは、整序をされているからそれなりの美しさをもっている。だが、中ザワヒデキがつくりだす「絵画」は、それだけではない。ある感触を、見ている僕たちに伝えてくる。漢字を人間に創らしめた、いわば自然の意志のようなもの、そういうものに繋がっていくような感触、とでも言ったらいいだろうか。それが、従来の絵画の概念・手段・方法とまるで異なる道をたどってそこに示されている、ように感ずる。つまり、たどった道はまるでちがうのだが、彼が狙ったもの、そして僕たちが感じとるもの、それは「絵画」なのである。「何を」表現するのか―それは彼にとって「絵画」なのだ。 その中ザワヒデキが、アナログなテクノロジーである版画をはじめて試みた。出来あがった作品を見て、僕は二つのことを感ずる。ひとつは、それがきわめて正統的な、本来的な版画作品であり、絵画であるということだ。そしてもうひとつは、それがそうであるのは、アナログ・テクノロジーを用いたこと以外に、やはりその「なかみ」から来ているということである。 アナログ・テクノロジーには、豊かな時間が蓄積されていて、それは一朝一夕にシミュレーションできるものではない。また、ディジタル・テクノロジーでは出来ないことが沢山ある。 しかし、もっと重要なのは、ここで中ザワヒデキが、その強い「方法への意志」を通じてといったらいいか、陳腐なアナログ版画作品でも、未熟児的なディジタル的作品もどきでもないものを実現していることである。例えば《209個の同一文字第五番》(「灣」)という作品。離れてみると「灣」という漢字の形がそれなりに見えるが、そのとき僕たちが見ているのは、じつはその漢字の「形」なのではない。まして、その漢字の形を美術の形として見ているのでもない。その漢字の形は、本来なら美術の形態(具体的な形、抽象的な形など)があるべき場所に、「その代りとして在るもの」、にほかならない。 この、「その代り」ということこそ、彼が表現しているなかみである。 何の代りなのかといえば、20世紀の側からは「絵画の代り」と答えることができる。そして21世紀の側からは、「かつて絵画だったものの代り」であり、「もう絵画ではない絵画」であると答えることができる。中ザワヒデキはそのあいだに立っている。 彼は、1963年、20世紀の生れだ。生涯の半分近くを20世紀のなかで生きてきた。そして、これからあとの半分以上を21世紀のなかで生きていく美術家である。しかも、フィレンツェ派(理性派、線の絵画)ではなくヴェネツィア派(感覚派、色彩の絵画)を標榜する彼は、僕たちがこれまで感覚とか感性と呼んできたものを、いわばディジタルな篩にかける。と同時にそのことは、ディジタルなものが感覚の篩にかけられることでもある。彼のはじめての版画作品は、そういうせめぎあいの初々しさを湛えている。 |
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| | 209個の同一文字第一番〜第五番 作者コメント TEXT 中ザワヒデキ
6版のリトグラフ連作「209個の同一文字第一番〜第五番」(2002年)は、プリントハウスOMの多大な協力によって制作した、私にとって初めての版画作品である。 「209個の同一文字第一番」は209個の同一の漢字「鬱」から成っている。1版目は一辺に1文字、すなわち縦横で合計1 (= 1 x 1) 個の「鬱」を黒色で印刷したものである。2版目は一辺に2文字、すなわち縦横で合計4 (= 2 x 2) 個の「鬱」を黒色で印刷したものである。3版目は一辺に3文字、すなわち縦横で合計9 (= 3 x 3) 個の「鬱」を黒色で印刷したものである。4版目は一辺に5文字、すなわち縦横で合計25 (= 5 x 5) 個の「鬱」を黒色で印刷したものである。5版目は一辺に7文字、すなわち縦横で合計49 (= 7 x 7) 個の「鬱」を黒色で印刷したものである。6版目は一辺に11文字、すなわち縦横で合計121 (= 11 x 11) 個の「鬱」を黒色で印刷したものである。2、3、5、7、11は素数であり、209は 1 + 4 + 9 + 25 + 49 + 121 の和である。漢字「鬱」は、日本語で「うつ」または「ふさぐ」と読むが、JIS (日本工業規格) コード第二水準表の「木」の部首の最後の文字である。ちなみにJISコード第一水準表と第二水準表は日本語ワープロや日本語パソコンに搭載されている。「木」は五行と呼ばれる中国の五元素、すなわち「木火土金水」のひとつである。 「209個の同一文字第二番」は209個の同一の漢字「爨」から成っている。1版目から6版目までの印刷方法は「209個の同一文字第一番」と同じである。漢字「爨」は、日本語で「さん」または「かしぐ」と読むが、JISコード第二水準表の「火」の部首の最後の文字である。「火」は五行と呼ばれる中国の五元素、すなわち「木火土金水」のひとつである。 「209個の同一文字第三番」は209個の同一の漢字「壤」から成っている。1版目から6版目までの印刷方法は「209個の同一文字第一番」と同じである。漢字「壤」は、日本語で「じょう」または「つち」と読むが、JISコード第二水準表の「土」の部首の最後の文字である。「土」は五行と呼ばれる中国の五元素、すなわち「木火土金水」のひとつである。 「209個の同一文字第四番」は209個の同一の漢字「鑿」から成っている。1版目から6版目までの印刷方法は「209個の同一文字第一番」と同じである。漢字「鑿」は、日本語で「さく」または「のみ」または「うがつ」と読むが、JISコード第二水準表の「金」の部首の最後の文字である。「金」は五行と呼ばれる中国の五元素、すなわち「木火土金水」のひとつである。 「209個の同一文字第五番」は209個の同一の漢字「灣」から成っている。1版目から6版目までの印刷方法は「209個の同一文字第一番」と同じである。漢字「灣」は、日本語で「わん」と読むが、JISコード第二水準表の「水」の部首の最後の文字である。「水」は五行と呼ばれる中国の五元素、すなわち「木火土金水」のひとつである。 これら5作の版画作品はデータこそCGであるが、従来の技法を使用した多重版リトグラフである。通常のCGプリントではできなかったばかりか、コンピュータのモニタ画面上でもうまくシミュレートできなかったアイディアを、ようやく形にすることができた。 | |
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| | 堀浩哉 River | 
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| 解説 堀浩哉 コーディネーター 千葉成夫
「地」に当るところはリトグラフ、「図」に当るところは銅版という、異種の版が重ねられて出来あがっている。地と図の関係のなかで独特な空間を表現しようとしてきている堀浩哉の新しい試みである。つまり異種の版をぶつけている点に特徴がある。そして二つの異質なものを同じ場でぶつけあうということは、技法ばかりでなく、茫洋とした「地」の部分と鋭い線との対比にこそ認められるのだ。前者は、じつは川の水面を撮ったビデオ映像が元になっているのだが、勿論、この作品を見るにあたっては、それを川の水面と見る必要はない。 むしろ、その上を走る鋭い線に対して、それとはまったく異質であるがゆえにこそ、ひとつの緊張関係をそこに生み出している、そういうものとして見るべきである。それが水面とは判らないように処理されていることには、だから意味がある。 とはいえ、川の水面という現実を用いたことにも、また、意味がある。たとえばどんなにぼやけさせても、現実を写し取ったものから成るひろがりは、純粋に造形的に作り出されたひろがりとは、やはり違うのである。この作品では、水面のイメージがいわば拡散させられて「光のひろがり」のようなものにまで抽象化されている。それを「地」として、それと拮抗するように、鋭い線が走っているのである。 そうやって二つの異質なものがぶつかりあうことでここに生じているのは、あえていうえならば、調和というよりはむしろ異和なのである。「地」はあくまでも朦朧と、「図」はあくまでも鋭く、その様子はまるで水と油のようですらある。しかし、おたがい、異質な極の方へと引っ張り合いながら、そのあいだに、ひとつの空間が広がる。視覚的にだけ見ているととらえられないかもしれないひろがりが、そこに在る。 鋭い線が、「地」に当る部分の枠をあちこちではみ出しているように、このひろがり(空間)は見る人の視覚を逸脱するのである。 | 作者コメント River 堀 浩哉
散歩するときや、出かけるときにデジタルビデオカメラを持って行く。ふと気を引かれたものを、あまり考えもせずに、無差別に撮る。ファインダーはもちろん、液晶画面さえろくに見ない。それなのにフォーカスはマニュアルにして、ズームも多用するから、後で見ると画面に決定感がないどころか、ぼやけて何を撮ったのかさえ分からないこともある。それを、パソコンにつないでクリップし、プリントアウトする。動画の一瞬だし、もともとフォーカスが甘いから、なんだかよく分からないが、これがおもしろい。なにかそそられるものがある。たぶん背後からの「光り」、なのだ。もともと絵画というのは、窓の向こうから差してくる光りのことだった。窓という切り取られた画面は小さいけれど、そこからは奥行きと広がりのある世界が見渡せる。窓の向こうのそんな世界が、光りとともに窓という画面に映る。それが絵画だった。とすれば、なんだかよく分からない「光り」だけのようなこのデジタルプリントは、 絵画そのもののようではないか、などと先走るべきではない。が、それでもやはりなにか、そそられる。プリントの表面に、グイッと線を走らせてみる。背後から光りを受けた窓ガラスの表面に、傷をつけるように。奥からの光りと表面の間に、ズレが生じる。そのズレが、薄いプリントの上に(あるいは窓ガラスの上に)、「空間」というイリュージョンを発生させる。うん、よし、もっと、と線が走り、線は線で錯綜し、自己主張をしはじめる。が、背後の光りが、その暴走を、ギリギリのところでコントロールする。「光りを殺すな!」と。光りの映像は、いくつかの川の水面。それをリトグラフで刷り、線は直接性の強いドライポイントを重ねた。 |
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